愛しい人が亡くなる時、限りなく悲しい。神を信じない人にとっては、死んでから何もありません。でも、はかない桜のように美しく生きる人は、生きていて良かったと思って死にます。『生きる』という映画の主人公は胃がんに罹っていて、あらゆる困難に打ち勝ち、貧しい子供たちのために小さな公園を作りました。その公園のブランコでやさしく揺れながら、生きがいを感じて亡くなりました。神を信じても永遠の命を信じない人もいます。(聖書のサドカイ派、詩篇)神を信じるので復活を信じる人もいます。
イエス・キリストは、死んでから、全然違った様子と状態で、まさしく同じ人が生きると教えました。(エマオ、マグダラのマリア)神にも自然にもならず、神のもとに生きるのです。永遠の命の比喩は宴会です。
永遠は、空間と時間を超えて得る次元でしょう。無限のここに永遠の今を生きることでしょう。全速力で動いて止まっていと思われる扇風機のように。地獄と煉獄は場所ではないでしょうが、清める期間の人のために祈るのは妥当です。
「復活するのにふさわしいとされた人は復活する(ルカ20:35)」その基準はマタイ25章の審判に書いてある通りです。即ち、人が助かるために人に仕えたか否かという基準です。地獄とは復活しないことかな?
しかし、この世の永遠の命で生きることにして、死後の命を神に委ねましょう。神と、人間と、自然と愛し合って仲良く生きることにしましょう。死んでから残る功績は、自分の愛の行いが人と自然に感じさせた深い喜びでしょう。『生きる』の公園で遊ぶ子供たちの笑い声です。このはかない功績は神の手のひらにずっと残ります。「お前を私の手のひらに刻み付ける。」(イザヤ49:15)
これでオンライン入門講座は終わります。イエスのようにイエスと共に歩んで、すべきことをして、良い意味でいい人でありましょう。有難うございました。
J.Garralda s.j.